
アムリトサル、冬の布が生まれるまで
アムリトサル、冬の布が生まれるまで
パンジャブ州アムリトサル。その街の名は、「甘露の池」を意味する聖なる池、アムリット・サローヴァルに由来します。ヒマラヤから流れ下った水が平野を潤し、山で採れた毛が糸になり、布になって世界へ出ていく場所です。
Pasandが探し続けていた冬の素材は、ショールやストールの産地として知られるこの街で、思いがけない形で見つかりました。
山から降りてきた布
アムリトサルの織物の歴史は、この街だけで完結するものではありません。
極細のパシュミナを織る技術は、もともとカシミールのものでした。それが平野へ降りてきたのは19世紀のこと。織り手や染め手がカシミールを離れ、アムリトサルやルディヤーナといったパンジャブの町へ移り住み、そこで機を立てました。彼らが持ち込んだ手仕事はやがて根を張り、19世紀後半には、アムリトサルで織られたショールはカシミールのものに迫る品質と記録されるまでになります。
同じころ、カシミール・ショールはヨーロッパで熱狂的に迎えられていました。あの雫のような意匠は、もとをたどればペルシャに発し、インドやカシミールではブータ(buta)と呼ばれてきたもの。ヨーロッパ各地で模造品が盛んに作られ、その一大生産地となったスコットランドの町の名から、やがて「ペイズリー」と呼ばれるようになります。町ではジャカード機が導入され、複雑な柄を効率よく織れるようになりました。

山から降りてきた技術と、ヨーロッパから来た機械。その両方を抱えたまま、アムリトサルの織物は続いてきました。北インドの寒い地域では、大きなショールやストールを身体に巻きつけて冬を過ごす文化も根付いています
「インドって、カシミール地方は寒いんですよ。だから大きなストールにして、サリーの上にくるっと巻く。それがイコール、コートなんですね」(mami)

男性も女性も、一枚の大きなウールを巻いて冬を越します。そのなかで楽しまれてきたのが、ささやかな装飾。無地の布に、少しの光沢を、小さなきらめきを。この街の織機は、そういう暮らしのためにも動いてきました。
東京では、冬の素材を探していた
Pasandは、まずファブリックがあって、そこにクラフトが重なるブランドです。季節にあった素材も、インドの職人と共に作り上げてきました。刻々と、東京で体感する“冬”そのものも変わってきています。ダウンや重いウールコートが本当に必要な期間は、もう一ヶ月ほどしかありません。求めていたのは、レイヤードを楽しめる薄さで、まだ暑さの残る十一月、十二月にも羽織れる、ウールのシャツジャケットのような一着。あとは、それを織ってくれる場所を見つけるだけでした。
その相手なら、すでにいました。プリントとジャカードでウールやウールカシミアのストールを作ってきた、長い付き合いのアムリトサルの工場です。けれど、いくらサンプルを頼んでも、届くのはやわらかい布ばかり。
「コシがないというか、くにゃっとしたものばかり送られてきて。ストールみたいになっちゃうんですよね」(miu)
ストールを得意とする工場だからこそ、届くのはストールのための布でした。メールと荷物のやり取りだけでは、そこから先の可能性までは見えてきませんでした。

もっとも、Pasandのものづくりは、もともと現地で進みます。工場に通い、職人と話し、その場で手を動かしてもらいながら形にしていくのがいつものやり方。今回は、ストールを受け取りに行くのではなく、まだ誰も頼んでいない生地の話をしに行くことに。満を持して、アムリトサルへ向かいました。
「これで洋服、作れますか」
現地に着いた時点では洋服を作るつもりはまだなかったとMAMIは言います。頭にあったのは、中判やスカーフのようなストール。 工場の奥には、見上げるほどの大きなジャカード織機が据えられていました。19世紀初頭のフランスで生まれ、パンチカードなどで経糸の動きを制御して複雑な柄を織り出す機械です。ヨーロッパでショールの模造品を量産したのと同じ技術が、いまは別の土地で、別の布を生んでいます。
「人の手で糸の色を指示して、何千個みたいな穴にひとつずつ通していくんだと思います」(miu)
その機械の前で、ふと質問がこぼれました。「これで洋服も、作れますか」
答えは「作れます」。ストール用の厚みで持っていたジャカードはコットンからウールに置き換えられるといい、ロットや生地幅、生産計画まで、その場で具体的な数字になって返ってきました。条件が見えたということは、一度きりで終わらせなくていいということです。
「現地だと、たまたま見たものをその場で質問して、新しい可能性を見出せる。今回も本当に現地まで行ってよかったなと思っています」(mami)
そしてもうひとつ、行かなければ分からないことがありました。この工場は、スーツに使えるほど張りのあるウールを織る力を、もともと持っていたのです。ただ、そういうものが求められていると、誰も思っていなかっただけでした。
「私たちもそこに挑戦してこなかったし。こういうこともできるんだ、っていうインスピレーションが湧いた」(miu)
送られてくる布が柔らかかったのは、技術の限界ではなく、互いの想像力がそこまで届いていなかっただけ。旅の目的は、そこで書き換わりました。
職人は、クリエイティブの大切な仲間
今回のものづくりは、最後は人に行き着きました。
図面を引き、こうしたいと伝えることはできます。けれど「これならできる」と職人が頷かないかぎり、話は一歩も進みません。逆に頷いてくれたなら、思っていた以上のものが返ってくることもあります。
「自分は設計を出して、リクエストするだけ。職人さんが動いてくれないと、ものは出来上がらないんですよね」(mami)

だから職人は、外注先ではなく、一緒にものづくりをするクリエイティブの大切な仲間なのだと、MAMIは言います。この工場で受け継がれてきた職人の手が、そのままデザインの出発点になるのです。
織り上がった生地には、次にクラフトが重なります。いつもならプリントで柄を入れるところを、今回はウールのキャンバスにコード刺繍を。図案に使ったのはブロックプリントのモチーフ、光はラメ糸。手の跡が残る刺繍と、版が生む反復と、機械が織り込んだ立体的な柄。異なる速度の仕事が、一枚の布の上で層になっていきます。 ウールの素材感をしっかり活かしながら、Pasandらしい繊細さも加えたい。かといって装飾を足しすぎると、素材の良さが埋もれてしまいます。
「こういう風にクラフトをきちんと入れたら、Pasandの秋冬が作れるかなと思って。まずはコストより、つくりたいものを優先して作り始めました」(mami)

素材から作り、そこに人の手を重ねること。遠回りに見えて、それがこのブランドの最短距離なのだと思います。
甘露の池の朝
工場のある街には、もうひとつの中心があります。
聖なる池の中央に浮かぶように建つ、シク教の重要な聖地、ハリマンディル・サーヒブ。街の名は、この池に由来します。金色に輝く姿から、ゴールデンテンプルと呼ばれています。

本殿には四方に扉があります。どの方角から来る人にも開かれている、という意味です。宗教や身分にかかわらず、誰もが受け入れられる場所として、この寺院は続いてきました。
朝に寺院を訪れると、靄の残る水面に金の本殿が静かに浮かんでいました。 境内には、グル・カ・ランガルと呼ばれる共同食堂があります。ホールでは一度におよそ5,000人が食事をとることができ、一日に約10万食が、誰にでも無料で供されます。
材料は寄付によってまかなわれ、多くの調理や配膳、片づけはボランティアが担っています。すべての人は平等であるという教えを、食事という形で実践し続けている場所です。

「いつもすごくパワーをいただいています。せっかく行くなら、絶対に行きたくて」(mami)
デリーから約450キロ。観光のために行く場所というより、何かを受け取りに行く場所。飛行機を降りて最初に気づくのは、空気の違いだといいます。商いの街として栄えたこの街で、祈りと商いはずっと隣り合ってきました。
東京の冬に
糸を紡ぐ人、それを運ぶ人、織機に糸を通す人、刺繍を刺す人。その連なりの先に、東京で着る一着があります。
アムリトサルで仕込んだ生地は、東京とデリーで一着ずつ形になりました。ウールジャカードのビッグシャツと、同じ生地のパンツ。ブラックにはゴールド、ブラウンにはシルバー。Zariと呼ばれるラメ糸が、小さな葉のような柄をさりげなく光らせています。
その柄の名は、Butta(ブッタ)。ヨーロッパで「ペイズリー」と呼ばれるようになったあの意匠が、生まれた土地の呼び名のまま、服の名前になりました。

縫い上がった一本を光にかざして確かめる
ふっくらとやわらかなハリ。サンプルでは届かなかった「コシ」は、こういう手触りのことだったのだと、出来上がった布が教えてくれます。そのボリュームを活かしてビッグシルエットに仕立て、艶のある小ぶりなボタンを添えました。巻く文化のある街で織られた布が、羽織るもの、着るものになって、いま目の前にあります。
一枚の布で冬を過ごす人たちの機から、レイヤードで冬を楽しむ街の服が生まれました。遠く隔たった二つの冬が、同じ織機の上でつながっています。工場で交わされたひとつの質問から始まった布に、袖を通してもらえる日がやってきました。素材探しの旅は、その先もまだ続いていきます。

Photography / Akemi Kurosaka
Text / Rio Hirai
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